寺伝によると、坂東寺の建立は延暦22年(803年)に伝教大師最澄が遣唐使の一員として入唐する時、坂東寺で道中の安穏を一七日間参籠し祈願し、開基したと記されている。当時の寺名は広福寺とされ、七百七十町(広川荘)もの広大な荘園を寺領として与えられ桓武天皇の勅願寺として栄え、本尊であった薬師如来は伝教大師入唐航海時、海中に浮木が流れてきて、すぐれた香りがあったのを持ち帰り、帰朝後に伝教大師自ら七体謹刻され、その一つを本尊にしたとある。それ以来、近隣の人々の身体の病気、心の病気を治してもらえる『お薬師さま』として心の拠り所であった。
ちなみに伝教大師が謹刻された『七佛薬師』は
1、比叡山延暦寺根本中堂の薬師如来
2、大和国法隆寺の薬師如来
3、奥州米山の薬師如来
4、日向国法華岳薬師
5、筑前国堅粕の薬師
6、筑後国坂東寺の薬師
7、佐嘉郡長尾山福満寺の薬師 である。
その後、時は流れ久安2年(1146)に紀州の熊野権現を勧請し神仏習合の寺院として栄える。しかし元弘3年(1333)に寺院内の僧侶と僧兵らが争い合戦となり焼失。貴重な伝教大師所縁の縁起書や寺宝すべて灰燼に帰した。その後、貞和4年(1348)寺名を広福寺から坂東寺に改め再建された。
天正12年(1584)龍造寺隆信が肥前の有馬仙岩を島原に攻めたが、有馬氏に味方した島津の軍勢のために散々に打敗られ隆信も戦死する。この為筑後の諸豪も参加していたが負けたので殆んど島津に服属してしまう状態になった。これを知った大友氏がこの時期に筑後をとり返そうとして出発し、また大友の家臣である戸次(立花)道雪や高橋紹運もこれを援けるために筑前から筑後に入り、両軍合して この坂東寺に陣した。それから西牟田をはじめ所々に放火して民家を焼き払い、その時 坂東寺も焼かれ桓武天皇の綸旨、御教書当国の大満帳、縁起等全部焼き払い仏教経巻宝物等を粉散してしまった。その上、住持信応を捕らえ西牟田の流村にて殺害した。坂東寺は兵乱ののち衆徒は離散し天正12年から13年にかけて無住時代がつづき古法の式も絶えた。
天正13年(1585)現在の浮羽市出身の僧侶 快心が坊舎を造作し大友宗麟にたのんで先規のように福間名30町を寺領とした。快心歿後福嶋城主筑紫上野介広門に心興僧都住持となり広門の援助により神社仏堂僧坊鐘楼仁王門末社に至るまでおおかたの建立をみた。
慶長5年(1600)10月、黒田如水、加藤清正 筑後へ出張し八院村の合戦によって坂東寺へ陣をしいた。この時、加藤清正の坂東寺放火等の禁制(慶長5年10月15日)や黒田如水からの下広川庄の乱暴狼藉などの禁制(慶長5年10月18日)が、今も坂東寺に寺宝として残っている。
その後、関ヶ原役で、西軍の将 石田三成を生け捕りにした大功によって田中吉政公が33万石筑後国主として入城された時、京都にある天台宗五カ室門跡である青蓮院門跡の尊純親王から筑後国主となった慶びと坂東寺のことを、いにしえより青蓮院門跡の末寺で他の寺院とは違うので再興のことよろしくたのむ。との文書もあり、田中吉政公より寺領三百五十八石を寄進され、隆盛をみるに至る。
衰えればその度に不死鳥のごとくよみがえる 栄枯盛衰のお寺 坂東寺
その後時は下り、明治維新となり廃仏毀釈によって熊野神社だけ残り僧侶は神職にかわり廃寺になるという最大の危機に陥った。
(天台宗年表 及び 筑後の寺めぐり 及び 筑後市神社仏閣調査書第四集 坂東寺篇 昭和49年8月15日発行 参照)
境内にある石作りの五重塔は1232年の銘があり、鎌倉時代の様式を伝える貴重な塔で、筑後地方最古の在銘の塔として福岡県の文化財に指定されている。
(天台宗年表及び筑後の寺めぐり参照)
境内地には 五重層塔が左右2基が立っている。
仁王堂から本堂に向かって 左側に貞永(1232年)に建てられた塔。右側に天保年間に建てられた塔がある。
左側の貞永の塔が県指定の有形文化財である。
寺伝によると、貞永元年(1232年)監物(昔 中務省出納役)の刑部丞である中原為則の肝煎りで、信者に勧め塔建立の寄付金により左右一対が建立された。
紀年銘明らかで、梵字如来像などの石造美術の様式を推定する上において貴重な考古資料で、また基礎に仁王像を刻する例も珍しいとされている。
貞永の塔の東によく似た同型の新塔が建てられてある。
これは、江戸時代中期 天保3年(1832年)久留米藩第9代藩主 有馬頼徳公(月船公)が、石造美術の愛好家であった。公の在世中 藩内の優れた石造品を集められ、この時に一対であった貞永の塔の右の塔を移され、その代わりに新しく塔を建てたのでは、ないかと言われています。
筑後国二十二番霊場
御詠歌
うちつれて のぼるやさかの
ひがし寺 まいる心ぞ 楽しかりけり